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安治不二

 投稿者:管理人もとはる  投稿日:2008年 8月29日(金)09時52分16秒
  安治不二とは「慰安や安心は治療と同時不可分のものである」という意味である。
慰安・安心は治療行為とは別のもので、治療的意味はないとされるが、実際には治療を行ってもなかなか改善が進まない人が慰安を十分に行ったことで治療が進むことをよく体験する。治療技術自体で改善することは改善するが、進み方が芳しくない場合、治療法を変える前に十分な慰安がなされていたか検討するべきである。慰安が十分されるだけで、動かなかった体の機能が回復へ向けて動き出し、改善が促進されるならば、わざわざ別の治療法を試みる必要はない。
慰安されて交感神経の働きが良くなり、血流の改善が成されることがその理由であろうと推測するが、そのはっきりした理由は定かではない。
しかし、経験的に得られたこのノウハウは用いることで考えられる副作用はない。だから、現在の治療技術を強化する第一義的な選択肢として活用すべきであろう。
 
 

変化の時

 投稿者:管理人もとはる  投稿日:2008年 8月22日(金)11時56分52秒
  かなり長い間、このホームページを放置してきた。よく削除もされずに残ったと思う。
この間、個人的には大変色々な変化があった。
昨年5月に結婚し、式を挙げ、妻の妊娠、流産、新婚旅行、妻の再度の妊娠と、さらに現在自分の職業的転機が来ている。
将来のことを考えると今、独立するしかないのである。
正直、あまり景気の良い状態ではないので、独立したからといって稼ぎが増えたり仕事が充実するわけではない。選択肢が広がって将来充実する可能性が高くなるのがそれだということである。決して、今有利だから独立するのではない。
現在勤務している治療院の状態が頭打ちで、将来的に伸びる可能性が極めて低い。たぶん、伸びるどころか下がっていく可能性の方が高い状態になってしまった。ここでいつまでも長居しては時期を失って禍根を残すだろうと感じている。
しかし今独立するのはかなりリスキーである。このリスクを排除するにはかなりの労働を自身に課さなければならない。楽をして自立できるはずがないのである。
しかし、決めた。来年独立する方向で計画を練る。そう周りの人間に相談して色々検討中である。
毎日仕事の合間や通勤時間などを使って開業のための方策を練っている。来年開業する上で必要なスキルを身につけて事業展開する。大した資本はないがやる気だけは十分にある。がんばろう。
 

バランス成長論 -パートナーシップの根本-

 投稿者:管理人もとはるメール  投稿日:2007年 1月 7日(日)03時03分39秒
  17世紀のフランスの思想家・ブレーズ・パスカルのメモが死後編纂されて「パンセ」という本の中に数々の名言を残した。

 力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力である

という文章があるらしい。よく、空手系の道場などで門下生を教育する際に用いられ、最近では大山マスタツが言ったように思われている位、ポピュラーな格言になった。力を身につける学習をする人間に対して、力を制御する重要性を諭すために用いられるが、この言葉は
 力 =動力系統
 正義=制御系統
と押さえると、あらゆる側面で使うことが出来る。
ブレーキがないエンジンは暴力で、エンジンがないブレーキはそも走らない・・・等である。

按摩の場合、
 力 =腕力など身体能力
 正義=施術技能(=技術)
である。

だから修行には時間がかかる。身体能力と技術を統合させていく時間が必要だ。明日にすぐ使えるようには成り得ない。俗に10年と言われるが、ここ10年修行してみて、実感として10年は必要と感じている。
バランスの悪い施術者とは、この身体能力と技術が十分かみ合っていない施術者で、技術的に低くてもそれを全うするのに適した身体能力の施術者であれば、むやみに力が強くて技術が低いよりも遥かに良い施術成果をもたらす。

自動車もエンジンと制御系のバランスが良いことが乗りやすさや寿命を決定するらしい。高出力のエンジンを軽自動車に乗せたって自爆するのは目に見えている。

治療師の成長とは、この身体能力と習得技術をバランス良く体系付けていくことであると理解する。それぞれ別分野の修練が必要であるが、うまく統合しながら修練すれば、時間を短縮できなくても、「間違った施術者」にはならない。だから、指導する人間は門下の人間の身体スペックと技術習得の状況を把握して、バランスの悪い所を微調整するだけで良い。それ以上いじると却って成長を損なうからだ。無理に引き上げようとすると、成長のバランスを失して怪我をしたり施術を失敗する。門下生もマスターも迷惑することになる。

指導するというのは先頭に立って引っ張ることに非ず。よく見て「助長補短」することである。つまり、参謀やアドバイザーの立場を全うすることである。リーダーになってはいけない。主人公はやはり、門下生の方なのである。

どういう方向でパートナーシップを形作るかが重要である。
 

悲観するくらいなら休め

 投稿者:管理人もとはるメール  投稿日:2006年10月26日(木)23時01分12秒
  ひとつの研究・勉強・訓練をして、出た結果が「確かなことはこの手法では確認できなかった」とする。
よくあることである。やることはやったが、何も分からなかった。
ただし、それによって、その方法では結果が出ないということが分かった。これは一つの結論として「別の選択肢を発生させるきっかけ」になる。
ここが重要である。別の方向性が選べるのであれば、少なくとも確かな方向に近づいたということは言える。時間は個人の人間にとって有限だから、その人の人生の中で試せる機会は限られているが、やった分だけ無駄なことをする機会は減る。だから如何なる研究・勉強・訓練も、正しく行えば有意義になる。
だから研究・勉強・訓練の結果内容で一喜一憂することは無意味である。全て有意義であり、使うことが出来るのであるから価値判断はその結果を利用する人間に任されている訳で、気に入った解釈パターンの結果が得られなかったという理由で、研究・勉強・訓練を無駄扱いするようなことは不見識と言わざるを得ない。

だからココで敢えて宣言する。

絶望することは無意味である。もっと言うと、無駄な行動である。感じても意味のない感覚を不見識で感じているだけだからだ。病気で悲観主義化しているのなら脳の治療を受けるべきだが、そうでなければタダの感情の空回りで、落ち込んで無気力になり慢性的に疲労してるかのような状態になるというのであれば、不見識に振り回されているという無駄な行動を行っているのである。もし絶望感に陥っているのであれば、それは試行錯誤の仕事のせいで疲労しているのだ。十分な休養を取って、後の結論を出した方が良い結果を出すのは間違いない。
 

腕を磨く力

 投稿者:管理人もとはるメール  投稿日:2006年 9月23日(土)01時18分29秒
  ニーズにあったサービスに顧客が集まる。(この場合、このサイトで語られる「優良顧客」のことではなく、来院される方全員を指す)
治療家に求められるものは様々であるが、治療家が治療家として社会の中で存在を確立できるほどに成長した場合、間違いなく技術的に卓越して顧客を満足できる程度の内容を持っている。無論、治療家の人格も大切な内容なのだが、実際の所、それはあくまで来院者にとって補助的な要素である。技術を妨げないように形成された人格であれば全く問題にならない。つまり、腕の善し悪しに元々人格の善し悪しもくっついているのだ。自分の性格が技術の発達に妨げになる要素を持っている場合、自分の人格さえ克服して腕を上げられないとダメなわけで、技術に対して献身できる程の情熱がないと本来は「適性がない」。

残念ながら、国家資格はこの辺の条件をクリアできる人をフルイに掛けていないため、資格があるかどうかではまだ判断できない。何せ、資格取得後10年で該当する仕事に就いている(業務形態は問わない)人は資格試験取得者の5分の1まで減少するのだ。この仕事はそれ程人を自然に選ぶ程厳しい生存競争に晒される世界である。一応、学生の時に調査した学内でのアンケート(学生教師を含む約400人から回収)から大体10年で自分の技術を確立するという傾向が見られるので、10年の内に振り落とされた他の資格取得者は「腕を磨く力」がなかったのではないかと推測している。
腕を磨く力とは何なのか。
自分や周囲の傾向を観察しながら、おいおい分析していきたい。
 

優良顧客

 投稿者:管理人もとはるメール  投稿日:2006年 6月 9日(金)00時52分26秒
  自分なりの問題解決法がかなり出そろったようである。だが、最後に現実問題、収入を安定させるための手法というモノが揃っていない。
つまり、治療するべきマスターはいつも定期的に自分自身を使ってくれるわけではない。必要が発生したら逐次というわけで、毎回定期的な顧客にはなり得ない。マスターに必要なサービスを提供し終わったら、それ以上は利用はないわけで、その間を補完するように治療ではなく別の目的のサービスを必要とする人、つまり「治ることを必要とせず、自我を守るためなら適当な痛みがあってもいい」という人も顧客の内に入れて収入源になってもらわないと安定はしない。

いや、本当なのだ。治療院で一定の顧客をつかんで安定的に収入を確保している者は全員このタイプの顧客を主要な顧客として持っている。そういうタイプの顧客が9割を超えると、毎日フル稼働で働くことが可能である。ただし、その場合には治りたいという顧客を入れる余地が無くなって、基本的に誰も治さない(治す実力があろうと無かろうと)治療師になってしまう。最初からこういうスタイルでやると基本的に治せない治療師になる。治すことを必要とされないから、そういう技術が身に付かないのだ。だから最初の時点でこれをやってはいけない。
僕はこういうタイプの「お客さん」が苦手で、基本姿勢としてはタダ従うことしかしない。提案できることが何もないからだ。こっている部分が辛いからそこを集中的に施術するということはするが、自分自身の体のことに関して関心が非常に薄いか、特別に頑固な自我を持っていて、その場所とは違うところをアドバイスすると絶対に受け入れてくれない。だから、本人の現在の姿勢が病の原因であろうともその姿勢は絶対に変えない方向で今ある痛みをなんとかその場で誤魔化すことが施術の目的になる。これは治療ではない。悪い意味での慰安である。何回やっても同じ所が痛くなるし、そのために何十年と同じ治療院に同じ主訴で通い続けている人がいる。治らないのだから治したかったら他の治療院でも病院でも行けばいいのだが、そうはしない。必ず自分の気に入った場所に気に入った手法で同じように鍼を打ち続けることを希望する。もちろん、その方法で一時的にせよ軽くなるのだが、既に20年を経過した現在も主訴は変わらず、毎回同じ部位に同じように鍼を打つと特殊な血液循環が出来るようで、その部位のみまるで独立したかのように他の部位との関連性が無くなって、他の人だと足に施術して肩や首の前の方に効いたりする事がその人だけ反応しなかったりする(正確には反応して緊張が変わっていても本人が理解できない)。人間の意志とは頑固なればそこまで固くなるのである。六不治の1を完全に生き方として全うしている人は少なくない。そういう人が治療院の「優良顧客」になるのである。そして、そういう優良顧客を獲得した者が成績優秀で、高額所得の治療師となるのである。
これは自分が今まで働いていた全ての治療院に当てはまる現実のことである。成績優秀な治療師であれば、かならずこのタイプの「お客さん」が圧倒的に多い。僕は免許を取得して以来、このタイプのお客さんを一度獲得したが、半年で嫌になって全て放棄した。そして、治療技術を獲得するために、それを必要としてくれる人だけを「マスター」として施術させていただいた。もちろん、技術的に未熟な時期であったので、最初から全員を治せたわけではないが、次第にその満足度は高くなってきていると信じている。しかし、治療師として問題は収入の面でそれだけでは難しいという現実である。どこかで収入源を確保しなければ、治療を必要としてくれるマスターのみでは一定期間お客さんが集中しても、治ればこなくなって収入が無くなり収入が安定しない。もちろん、そんな顧客を大量に抱えたら治すことを求められないのだからどんどん腕が有らぬ方向へ行ってしまう。ベースに適当に持つ程度にして、それ以上は拒否するようにするという営業的な方向を考えなければいけないのだ。

正直苦痛だ。顧客としては利用できても尊敬できない。マスターなんて死んでも呼べない。既にそのタイプの顧客が何人かいるのだが、言われたことだけやる仕事に結果なんかないのでカルテの管理も一切していない。それでもできるのだ。今勤めている治療院は以前、カルテが形骸化していたが、その頃の顧客層の中心を見るとやはり「優良顧客」ばかりである。カルテなんか必要ない。お客の顔を覚えて人情を中心に繋がっていれば来客し続けてくれる人たちである。
ただ、別にコレが罪であるわけではないので、社会的には何も問題にならない。

僕の場合、いずれ優良顧客さん達が離れてもおかしくないように、言うべき事はきちんと言っておくようにしている。つまり、按摩や鍼灸で治す方法があるわけではないので、辛いところを今癒すということ中心になりますがそれでもいいですか、と。また、時間制限があるので、時間が来たら「今日はすいませんがここまでになります」と言って終了する。それで出来ないことは出来ないのである。結局、程々のつきあいになるが、仕方ないだろう。もっと癒してくれるテクニックを持った人が出てくれば、その人の所に行ってもらって構わない。お客さんの人生なんだから。

固いコリはなんとかなっても、固い心は何ともならない。願わくば、いつかどこかでその心が自分自身の体の声を聞く方向に向かっていくことを。
 

日常の五心

 投稿者:管理人もとはるメール  投稿日:2006年 6月 7日(水)03時53分35秒
      一、「すみません」という反省の心
    二、「はい」という素直な心
    三、「おかげさま」という謙虚な心
    四、「私がします」という奉仕の心
    五、「ありがとう」という感謝の心

(長野県 善光寺の手ぬぐいより)
 

心が正す

 投稿者:管理人もとはるメール  投稿日:2006年 6月 7日(水)03時32分49秒
  いささか説教くさいかもしれないが、やっぱり心が正しくないと体は健康にならない。
現時点で異常がないということは健康であるということではない。これはWHOの定義にもそう有るとおりだと思う。明らかにバランスを失調していて、どんどん病の極みにはまっていく道を歩んでいる状態であれば、現時点で異常が無くても十分に不健康である。従って、そのことに気づかない心こそが問題である。

心が健康にするのであって、健康であれば正しい心を持つわけではない。

従って、体調の不調を訴える場合は、必ずどこかに心の問題を抱えている。
心の問題を明らかにしないで治療しても無駄に終わる。場合によっては悪化を助けてしまう。

例えばぎっくり腰。

確かに筋筋膜性腰痛で、多くは多裂筋や腰方形筋の筋繊維断裂によるものだが、不幸な事故や災害に巻き込まれたのではない限り(普通こういう場合にはぎっくり腰とは呼ばないが)、日常の何でもない普通の動作で発症する。朝起きて顔を洗おうと洗面所で前屈みになった瞬間とか、子供をあやしている瞬間とか、別に普通の人なら何でもないことで発症する。それが筋繊維を断裂させる程の事に変わるには、断裂する部分の組織が異常なほどにむくんでいなければならない。原因は過労とか不眠とかストレスとかで、そういうモノが積み重なって、クリアされずにどんどん上塗りするような生活をし続けているとそういう無茶な状態になってしまう。だが、本人がそういう事に気づいていない。自分の体が悲鳴を上げていることに気づいていない。そういう心の問題がそこまで状況を悪化させてしまうのである。
このぎっくり腰、痛みは実はさほど問題なく解消できる。ただし、誰がどんな努力を払おうと完治には1週間必要で、その間、絶対に過重な負担を腰にかけることをしてはならない。もちろん、夜更かしやストレスも厳禁である。筋繊維の断裂自体が解消されるのに必要な治癒の時間を短縮することは出来ない。ところが、こういう病を発症する人は、上記の通り、自分の体の声を無視する傾向が非常に高く、痛みを感じないほどにしてしまうと、その時点でまた無理な事をしてしまうのである。最初の筋断裂が治癒しないうちに再度筋断裂を発症すると今度はその部位の炎症がかなり大きなモノになってしまい、鍼治療が効かなくなる。(正確には効果を出すのにかなりの労力が必要になるということなのだが)だから、ぎっくり腰の最初の治療で完全に痛みを鎮痛させてしまうと、西洋医学の鎮痛剤を与えたのと同じ事になってしまい、発症したことで本人が得られる「反省の機会」を奪ってしまう。

どんな方法を使っても1週間休養しなければいけないとしたら、楽であるには鎮痛した方がいいのだが、果たしてそれは本人が生活を変えるような原動力にならない。ぎっくり腰はそこまで体を追いつめた人の生活を自身の体が否定したメッセージなのである。

だから、僕はぎっくり腰は完全に鎮痛することは絶対にしない。程度を軽くはするが、痛みを感じつつ、どうやって腰を労るべきか考えながら生活してもらう。生活をきちんとすれば、予防が十分に出来る病気だ。他人には絶対分からない痛みだから、自己管理するしかない。それをするためには、自分自身のためには敢えてその場から身を引くという事が出来ないといけない。もちろん、そうならないための予防体操なんかも生活に取り入れる自覚も必要だ。

心が正しくならなければ、身を滅ぼすということが本当にあるのだ。

治りたいのであれば、まず、心から始まる。
 

喫茶室

 投稿者:管理人もとはるメール  投稿日:2006年 3月24日(金)00時59分55秒
  法規上、治療院には待合室を作らなければいけないが、治療をただ待っているだけというのはもったいない時間の使い方である。

待つ部屋ではなくて、そういう時間を有効に使うための時間にしてほしい。
マスターは自分の自己管理のために常に勉強する人である。
有効で最新の情報を与えられる権利を有しているので、そういう情報を施術室に来る前にじっくり勉強して頂ければ回復に有効なことこの上ないだろう。
むしろ、施術室よりも居心地の良い場所である方がいいかもしれない。座って待つのではなくて横になれるとか、空気が清浄で瞑想に耽られるくらいとか、暖かく柔らかい絨毯若しくは畳でスリッパなど履かず、素足でも歩けるとか、一息つくくらいの時間があって、お茶程度なら自由に楽しめるとか、もちろん有効な情報が得られる文献もネット情報も十分にあって・・・
そこで佇む内に何かに気づいていじらなくても良くなることだってあり得るような場所。

施術室の管理は何よりも重要だが、本来はそこに来るまでの過程が大切だ。だから、施術を受ける前に一歩引いて「本当に鍼した方がいいのかな」と思うくらいの余裕ができたらいい。

治療室は小さくて良いから、その前に十分に深呼吸できるだけの空間を作りたい。
 

ラスト・オピニオン

 投稿者:管理人もとはるメール  投稿日:2006年 3月17日(金)17時14分47秒
  もしも、マスターが長患いをしていたら、それまでの治療経過とともに、その疾患の医師の診断を疑え。

相当勇気の要ることなのだが、決定的に治らない状態でない限り、医師の治療が不適切なばかりに治らないという事が、本当に多い。
よく、大きな疾患(ガンとか)が鍼とか漢方とかサプリメントで治ったという話しを聞くが、どうもその背景は誤診の可能性が極めて高い場合が圧倒的だ。ろくな診断と、ろくな処方を受けていないから治らない。極端な場合、薬で治すべきでないものに薬を使って、鍼が適用な疾患のマスターがたまたま訪れた鍼灸院で1回鍼を打たれてはい終了、という場合もある。

医師の責任でない誤診もある。つまり、医学があまりに加速度的に進むために、診断の方法や結論の付け方が変わって診断が途中で変化する場合もある。
結局、長患いになっている場合には、時々今までとは違う医療機関を受診して新しい診断を仰ぐことが必要なのである。

時代とともに病も変化する。マスターが変わらなくても変化していき、治療方法も変わる。
セカンドオピニオンとか言うが、本質的には「ラスト・オピニオン」と言うべきで、何回でも時代が変わる毎に診断を受け直し、自分自身を時代に照らして見直す事が必要だ。
 

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